シリーズ 決断の心理学

■その時英雄は・・・

  ◎権力の移行期に生き残る心理

 

西行法師

 

権力の中枢にいるか、文化人として生きるか

 

 西行は『新古今和歌集』1797首中、第一位の95種が自作であるという才人でありながら、世欲を捨て仏門に生き、日本各地を漂泊した伝説的な生き方が今なお親しく語られる人です。

 生まれは、平清盛と同い年の元永元(1118)年。平安末期の院政時代は、やがて天皇・上皇と結んだ武士団が覇を争った保元・平治の乱と平家政権へと移行。次いで鎌倉幕府が成立します。西行が生きた時代は、まさに現代に似た政権交代の激動期でした。

 西行は俗名を佐藤義清といい、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫にあたります。文武両道に秀でた北面の武士として、鳥羽上皇を護る職に就いていましたが、23歳で出家しました。北面を辞した理由には諸説ありますが、いずれにせよ、西行は権力争いの中枢で生死を懸ける人生を選択しなかったことだけはたしかです。

 出家した西行は、歌を詠みながら伊勢を経て、東国へ向かいます。在原業平にならい富士を眼前にし、さらに遠縁にあたる奥州藤原氏の本拠・平泉で秀衡の歓待を受けます。続いて京へ戻り、保元の乱で敗れた崇徳上皇が流された隠岐まで訪ね、弘法大師の生まれた四国・善通寺で庵を結びます。再び京へ戻り、高野山、伊勢に庵を結んだ西行は、文冶21186)年、68歳になって東大寺勧進のために2度目の奥州生きを実行。途中、鎌倉で頼朝にも面会しています。

 頼朝は西行に対して、歌の道と兵法について教えを乞います。西行は「歌に奥義などはなく、折々に花や月を見た感想をただ31字に記すだけです」と答えたといいます。翌朝、西行は頼朝からお礼にと渡された銀製の猫を、門外で遊んでいた子供に与えてしまったと『吾妻鏡』には伝えられています。

 3年後、頼朝は奥州藤原氏を討ちます。だからこそ、次代の権力者となった頼朝も、西行に面会したのでしょう。西行は世捨て人に見えますが、当時最高の歌人でもあったのです。日本各地を見聞し、草の根のネットワークと情報をもっていたはずです。

 現代の日本も権力の移行期だと考えると、西行の選択は、示唆に富んでいると思います。

 安定した権力があれば、その中枢に近いことが、安全であり、経済的成功に結びついたのですが、激動期には、そのことがかえってリスクになってしまうからです。

 西行はおそらく有能な人で引く手あまただったでしょう。しかし、権力の中枢にいれば、いつ殺されるともわからず、好きなこともできません。

 西行はこんな歌をのこしています。

世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ

 世俗の権力はないが、好きなことをして生き延びられ、影響力を持つ。「文化人」として生きるということが何を意味しているのか、西行にはわかっていたのです。

 

西行法師(さいぎょうほうし) 

11181190)俗名・佐藤義清。平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の流れをくみ、同族が関東各地の武家源流となっている。18歳で北面の武士として鳥羽上皇に仕え、武士としてだけでなく和歌と有職故実に通じていた。23歳で出家、日本各地を漂泊、多くの和歌を残した。最晩年は大阪・弘川寺で過ごす。

 

 

 

  ◎老年デビューで戦を勝ち得た心理

 

北条早雲

 

老獪さや人生経験を活かした政策でのちの繁栄を築く名将

 

 延徳3年(1491年)、駿河の守護・今川氏親の一部将で駿東方面を守っていた北条早雲は、伊豆国の動きを探っていました。早雲は、自ら老人に変装し、修善寺の温泉に浸かるなどして情報収集したといいます。

 当時、伊豆の韮山には京都の足利幕府から派遣された堀越公方がいましたが、跡継ぎをめぐって内紛が勃発。そして2年後の明応2年(1493年)に早雲は堀越御所を急襲し、あっという間に伊豆を奪取しました。山あいの伊豆の地を短期間で平定できたのは、年貢をそれまでの五公五民から四公六民に軽減するなど、民意を反映した政策を行ったからだといわれています。

 早雲は、これをきっかけに自立し、戦国大名として名乗り出ました。そして小田原城を手に入れ、相模を平定し、五代百年に及ぶ北条氏の基礎を築き上げて、永正16年(1519年)、88歳で生涯を遂げました。

 戦国武将というものは若々しい印象をもたれがちです。しかし、若くなくても意外にしぶとくやっている人もいます。徳川家康が天下を取ったのも、長生きしたからとされています。長生きできることが、実は戦国を勝ち残るひとつの方法だったのでしょう。

 その代表例が北条早雲です。

 早雲から学ぶべきポイントは、歳を重ねるにつれて焦ったり、あきらめたりするのではなく、時機を待つということ。相手方の内紛や城主の死など、攻めるのにちょうどいいタイミングがくるまで待てたのが彼の強みです。ビジネスであれ、政治であれ、最近は若いリーダーばかりが求められますが、機を伺うにあたっては、老獪さや人生経験が生きてくることもあるのです。

 もうひとつ学ぶべき点は、民意を反映した政策を行ったことです。戦争というものは武力闘争だけでなく、戦争で勝ち取った土地をいかに平定するかというほうが、実は大切なポイントです。

 これは、現代でも変わらないことで、クーデター後の政権維持は、民衆がそのリーダーについてくるかどうかにかかっているのです。例えば、キューバのカストロやリビアのカダフィは民衆に支持され、いまだにクーデター政権が続いているのです。

 歳をとっても自分の夢を持ち続けることは大切です。セオリーに振り回されて、若いほどいいと思うのではなく、自分は若い人たちより何が勝っているかを考えるべきでしょう。

 最近は、四十代後半で、「もう若いやつに任せた」などと人生を半分あきらめたような人が多くいます。しかし、それは大きな間違いです。5060歳になろうと80歳になろうと、「自分には能力がある」と思っている間は引退する必要はないのです。

 経営者ならば、隠居するのはまだ早いですし、定年退職を迎えたのならば、そこから起業しても十分に成功する可能性があります。これまでの人生経験から、若い人たちに負けないと思えるところはどこなのか、一度よく考えてみるいい機会でしょう。

 

北条早雲(ほうじょうそううん) 

14321519)戦国時代の大名。実名は伊勢新九郎盛時で、北条の姓を名乗るのは嫡子・氏綱から。出家して早雲庵宗瑞と号する。明応2年(1493年)、伊豆国を攻め取り、同4年には小田原に進出。永正16年(1519年)、88歳で生涯を終えた。北条氏は初代早雲以来、氏綱、氏康、氏政、氏直と五代にわたり、小田原を本拠地に関東の支配を目指した。

 

 

 

  ◎舅から他国の婿へ受け継がれた政策と心理

 

斉藤道三

 

道三のプラグマティズムから学ぶこと

 

 天分17年(1548年)、美濃の戦国大名・斉藤道三は、宿敵であった尾張の織田家の濃姫(帰蝶)を嫁がせました。3年後、婿にして「うつけ」と呼ばれていた信長は織田家の家督を継ぎます。道三が「婿に会ってみたい」と思い使者を送ったところ、信長はあっさり承諾し、天分22年(1553年)、尾張と美濃の国境にある正徳寺で会見が行われました。

 道三は信長のうつけぶりを見ようと民家から織田の行列を覗き、織田軍の軍装(長槍の採用、鉄砲隊の配備)のほか、もろ肌脱ぎで瓜にかぶりつき、腰に瓢箪をぶら下げた信長の姿に驚きました。ところが、会見の場では、しっかり盛装を着こなしている信長の堂々とした物言いに「わしの子らは、あのうつけの門外へ馬をつなぐであろう」と予言したといいます。

 そして弘治2年(1556年)の長良川の戦いで、道三は息子の斉藤義龍と戦って戦死するのですが、戦死する前日、信長宛に「美濃一国を与える」という内容の遺言状を残したとされています。

 信長は時代の変革者といわれていますが、私は、信長は道三から影響を受けたり学んだりしたことが多いと思います。

 道三は「美濃のマムシ」と呼ばれただけあって、秩序に対して非常に挑戦的であり、自分の目上の人間に夜襲をかけるなど下克上の代表例といえる人物です。しかし、一方でとても現実主義者だったと思います。つまり、戦争というのは金がないと勝てないという当たり前のことに気づいていたのです。

 当時の大名の資金源は、米や塩を作らせる一次産業でした。しかし、道三は交通の要衡である美濃に楽市を作ることで、いろいろな地域から金を落とさせる方法を探りました。信長が戦争に強かったのは、鉄砲を買ったり兵を大量に雇ったりする金を作れたからですが、これは、商業で金を得ることで軍事力わ高める=富国強兵のモデルを道三が採用し、信長が発展させたといえるのではないでしょうか。

 自分がつくった家や会社を子供に継がせたいと思うのは、一般的な心理です。しかし道三のような、秩序に逆らったり、富国強兵策であったりという考え方の継承は、血のつながりだけでは困難です。そこで、自分の考え方、やり方を受け継いで、さらに発展させてくれると思ったからこそ、娘婿に一国を与えるという遺言状さえ書いたのではないかと思います。

 金もないのに立派な軍隊をもって、国が滅びたり弱体化したりするのは現代でも生じることです。今の日本も道三を見習い、まずは経済の再建が優先されるべきです。事業や経営を次世代に任せる際には、情より、人物やその考え方をみる。巨大企業や名門企業が倒産し、企業買収も当たり前に行われる。戦国時代ともいえる競争原理の強まる現代社会において、斉藤道三のプラグマティズムから学ぶことは多いと思います。

 

斉藤道三(さいとうどうさん) 

14941556)戦国時代の大名。京の油商人・山崎屋に婿入りし、繁盛させる。その後、美濃守護である土岐政頼の弟・頼芸に仕え、両名を追放し乗っ取りに成功。稲葉山城城下に楽市を設けて商業の中心地として繁栄させ、富国強兵策を採り、隣国の尾張織田氏や越前朝倉氏に攻め込まれるも撃退した。弘治2年(1556年)、息子・義龍と対決し、長良川の戦にて戦死。

 

 

 

  ◎部下を大切にすることが強い力を生む心理

 

長宗我部元親

 

家臣やその家族のために領土を拡張しようとする大家族主義的リーダー

 

 戦国の世では、さまざまな英雄が突然現れ、巨大な領地を得、後にその家が簡単に滅ぶということは珍しくありません。

 織田信長や豊臣秀吉の直接のライバルではなかったため、あまり目立った存在ではありませんが、一代で四国全土を平定した有力な戦国武将に長宗我部元親がいます。

 土佐の元名門豪族の家に生まれ、名家復興のために奔走した父親の遺志を継ぎ、その死後、15年でついに土佐一国を平定します。

 その後、さらに四国平定に乗り出しますが、織田信長と敵対したことにより、信長の援助を受けた勢力に苦しめられます。しかし、信長が本能寺の変に倒れて四国征伐が中断されると、その混乱に乗じて一気に阿波、讃岐、伊予へと出兵し、四国をほぼ手中に収めることに成功します。

 私がこの元親に関心をもつのは、部下や領民を大切にすることで自分の家や国を強くしていくという発想の持ち主だったことです。

 家臣に、なぜ四国平定を目指すのかを問われると「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らすには土佐だけでは不十分」と答えたそうですが、自分の野心ではなく臣下のための出兵と言われれば、それだけ家臣の意気が上がるのも当然、予想できます。

 これらが口先だけでないということが伝わるエピソードもあります。秀吉が天下統一をした後の舟遊びの席で、秀吉からもらった饅頭を各地の大名が食べるなか、元親は端をちぎって食べただけで残りを紙に包みました。その理由を秀吉から問われると「ありがたい饅頭ですので、持ち帰り、家来にも分け与えます」と答えたとか。このような部下への愛情が、部下に上手に伝わることで、急に大きくなった家であっても、部下のまとまりがよかったのでしょう。

 さらにいうと、家臣を愛しただけでなく、それを支える領民を大切にすることでも国のまとまりをよくし、結果的に強国を作りました。土佐平定の際に定めた15条の法令では「百姓をあわれんで撫育を加え、清廉な心をもつこと」と明言されています。こういった農民が、戦時には武装して駆けつけ、「一領具足」という郷士の集団を築き上げました。

 最近は、日本でも家族的経営が否定され、成果主義的な報酬体系と、出来の悪い人間はクビにするというようなアメリカ型のマネジメントを評価する声が高まっていますが、金銭的な報酬より、会社や社長が好きだから一生懸命働く組織は今も有力なはずです。

 元親は、部下を愛することで愛される日本型のリーダーシップの意義を再考させてくれる一人といえるでしょう。

 

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか) 

153999)高知県の岡豊城にて生まれる。永禄3(1560)年、父である国親の跡を継ぎ家督を相続。その後、本山氏、安芸氏を滅ぼし、天正2(1574)年には土佐をほぼ制圧。翌年、四万十川の戦いで一条兼定を撃滅し、土佐統一を果たす。その後、阿波、讃岐、伊予に侵攻し、天正13(1585)年には四国全域をほぼ手中に収めた。

 

 

 

  ◎跡継ぎを先代と比較してしまう心理

 

武田勝頼

 

国を滅ぼした世襲の落とし穴

 

 武田勝頼は、元亀4年(1573年)武田信玄が上洛作戦の途中で病死したため、諏訪姓から武田姓に復し、家督を相続しました。

 勝頼といえば、戦国時代の名門・武田家を滅ぼしたということで、現在に至るまであまり評判はよくありません。武力には長けているけれど知勇のない“愚将”といわれるのが一般的な見方です。

 しかし勝頼は、父・信玄が最後まで落とせなかった徳川方の遠州高天神城を陥落させたり、家康の家臣・大賀弥四郎に調略を仕掛けるなど、父譲りの才能も多分にもっていたような気がします。それでも武将としてダメという評価があるわけですが、父親と子供を比較するという考え方自体、してはいけないと思います。

 世の中、さまざまな形で世襲というものがあります。「先代は偉くて二代目はダメだから」とか「先代は立派だったけれど、二世はパッとしないね」などという人も多いでしょうが、安易に矮小化してはいけません。功績のあった人の跡を継ぐ際に、周りの人間はその期待から、どうしても先代と比較してしまう心理が働きます。血がつながっているからといって、先代と同じことができるということはない。違う人間だと思わないといけないのです。

 もっとも、勝頼が当主になってから頻繁に兵を動かしたことは事実で、彼は絶えず兵を遠州、上州、信州に出しており。最後のほうでは国力がかなり疲弊していたといいます。

 つまり、武田家が滅んだ大きな原因は、勝頼自身が先代の名を汚さないように背伸びをしてしまったから。特に、彼は戦争に自信があったからといって、経済的な基盤がないのに戦争をやりすぎた。さらに、先代と比較するあまり、それを止める家臣団もいなかったからでしょう。

 経済的基盤が整わないと、戦争をしても負けてしまいます。それは戦前の日本もそうで、戦略があって戦争に強いと自負していたとしても、経済的基盤があってこそ実現できることです。「富国強兵」という言葉があるように、富国が先なのです。強兵にしたいと先に思う人が多いですが、まず国を豊かにしなければ、戦費を賄うことはできず、負担を強いられる領民たちの反発も食らいます。

 甲州は米がふんだんに獲れるところではありませんでしたから、人口も多くないでしょうし、もともとは戦争に不向きだったはず。たまたま、優秀な武将である信玄や強い軍隊がいたから、あれだけの強国になったのです。戦国時代は皆が戦争をしていたわけではなく、上手に外交を避けていた人たちもいます。家康は外交を重ねて生き延び、天下を取った人です。

 勝頼には、富国と強兵のバランスを考えたときに富国よりも強兵を重んじてしまった点に、失敗を感じます。軍人としてダメだったのではなく、国としてとるべき政策の優先順位を見極められなかったのが問題だったのです。世襲の際の教訓として、武田勝頼から学ぶべき点は大きいと思います。

 

武田勝頼(たけだかつより)

154682)戦国時代の武将。甲斐を本拠とした武田信玄の子。母は信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘。1575年(大正3年)織田信長・徳川家康連合軍との長篠の戦いに大敗してのち、次々と領国を失い勢力は急速に衰え、1582年、織田・徳川連合軍の侵攻を受け、天目山で自害。武田家は滅亡した。

 

 

 

  ◎長く生き残ることの心理

 

織田長益

 

趣味を究めてこそ、第二の人生である

 

 織田信長の末弟である織田長益(有楽斎)は、天正10年(1582年)に起こった本能寺の変の際に、信長の跡継ぎである信忠と二条城(御所)に籠城しました。信忠はそこで自害しますが、長益は落城前に逃げ出し岐阜へ逃れました。この振る舞いは京都の子供たちから嘲笑されたという逸話があるほどで、臆病者の代表格のように印象づけられました。

 そして信長の死後、信長の後継として天下に覇をとなえるチャンスがあったかもしれないのですが、それを逃し、豊臣秀吉、徳川家康の権勢の下を渡り歩きました。

 特に秀吉の死後は、関ヶ原の合戦、大坂冬の陣・夏の陣と、東西の勢力に、利用されたり裏切ったりしたといいます。つまり、時の権勢にひかれるがまま、ふらふらと生きたので、武人・政治家としての功名はあまり残していませんし、評価も低くされてきました。どちからというと、織田家の血筋=いいとこのお坊ちゃん的なイメージの文化人、茶人、数奇者としてとらえている方も多いかと思います。実際に茶人としては、千利休の弟子として知られ、有楽流という茶道の祖として現代でも高い評価を得ています。

 しかし私は、茶人、文化人としての彼の評判もさることながら、戦国時代から江戸初期まで長生きしたことを高く評価したいと思います。表舞台を離れ、生きながらえたことで、茶道では名家にもなったわけです。長生きする人が少なかった時代はともかくとして、現代のように長生きする人が多い時代になったときに、表舞台から離れた後、自分の趣味に打ち込むことで後世に名を残せる典型例として挙げたいのです。

 武人としては臆病者や裏切り者とされているにしても、多くの人は茶人として知っている。つまり、名を残した部分は圧倒的に、彼の趣味が高じたところにあるわけですから、引退後の趣味だからといって“なあなあ”で楽しむよりも、本気で打ち込むことの意味を感じさせます。

 たとえば、細川護煕元首相は、政治を離れて自分の趣味である陶芸に打ち込み、今ではその世界で有名になっています。長益も同様に、後世に名を残すようなことを始めたのは50歳代以降です。

 いろいろな時代の変節はありますが、生き延びてこそ、出会うものや人がある。生き延びてこそ、いいことがあり、晩年の趣味を究めることで、人生を2度生きることができるのです。

 特に長益の場合は、人生を3度生きたようなものです。信長の弟という黄金時代があり、本能寺で死ぬはずだったところを生き延びて、豊臣家や徳川家の非常勤相談役のような役回りを務め、50歳を過ぎてから趣味人として生き、その趣味で名を残した。生きながらえる心理、好きな趣味を究める心理というものは、ある種、今の時代を生きるヒントになるのではないでしょうか。 

 

織田長益(おだながます) 

15471621)安土桃山・江戸初期の武将。茶人。織田信長の弟で、信長の死後、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。大阪城で豊臣秀頼と家康との折衝役をしていたが、その後、京都に隠棲した。茶を千利休に学び、利休七哲の一人に数えられる。東京都千代田区有楽町は彼の住居に由来するといわれている。

 

 

 

◎失敗を反省し名誉挽回をする心理

 

仙石秀久

 

失敗のフォローと恩義の使い方を学ぶ

 

 仙石秀久は、豊臣秀吉傘下の武将として順調な出世を遂げ、天正13年(1585年)に讃岐十万石の領主になりました。ところが、翌天正14年、九州討伐において薩摩の島津軍に打ち負かされ、さらに、撤退中の軍を見捨て、自分の領地である讃岐まで逃亡してしまったのです。秀吉は激怒し、所領を没収。高野山へと追放しました。

 仙石秀久に名誉挽回のチャンスを与えたのは徳川家康でした。天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めに、徳川の客将として参陣。鈴を陣羽織全体に縫い付けて(音がするので目立つ)奮戦し、功を挙げました。その活躍により、仙石秀久は秀吉により帰参を許され、小諸藩主となりました。

 秀吉の死後、徳川方につくものの、徳川秀忠とともに上田城攻めに時間を費やし、関ヶ原の戦いに遅刻。秀忠が家康から叱責されるのをかばったといいます。その甲斐あってか、二代将軍秀忠からはとても信頼され、幕末まで仙石家は安泰でした。

 仙石秀久の失敗のフォローの仕方について、ふたつの点で学ぶべきところがあります。ひとつは、なぜ失敗したのかを分析することで、同じ失敗をしないというテクニックを獲得する。ふたつ目は、失敗をどのように成功に結びつけるか、ということです。失敗は放っておくと、さらに大きな失敗の基となります。失敗したときに余計な言い訳や隠蔽工作をし、ごまかそうとしてさらに失敗してしまうのが人間の習い性なのです。

 仙石秀久は、戦に大敗しただけでなく、自分だけ逃げました。失敗の際のパニック心理に振り回され、失敗の悪循環を余計に大きくして大恥をかいてしまった。当然、秀吉は激怒し、彼を処分しました。しかし、仙石秀久はそこで諦めるのではなく、チャンスを待っただけでも大きな意味があったと思います。小田原攻めがあり、実力者の徳川家康に取り入ることができたわけですから。

 次の問題は、臆病者といわれることをどう回避するかだったと思います。そこで、仙石秀久は死を覚悟して、いちばん目立つ形で暴れ、臆病者の汚名返上に苦心したわけです。失敗というものに対するフォローの仕方というものを彼なりに考えて、それによって復活したのです。

 また、九州討伐で大敗したあとの家康との一件で、「とりなすことによって相手が恩義を感じてくれる」と肌で学んだのでしょう。関ヶ原の合戦に遅刻した徳川秀忠に対し、かばう役割を買って出ました。自分が不遇のときに得た教訓から、家康と同様にすれば、秀忠が恩義を感じてくれることをわかっていたと思います。

 このように、一度の失敗で諦めてしまうのではなく、フォローの方法や失敗から学ぶことができたからこそ、豊臣、徳川と政権が変わっても藩主でいられたのです。

 同じ失敗を繰り返さないことや、失敗のフォローをどう行うかという事例も含め、仙石秀久から学ぶべき点は多いのです。

 

仙石秀久(せんごくひでひさ) 

15521614)戦国時代の武将、江戸時代の大名。豊臣秀吉に古くから仕え、天正13年(1585年)四国討伐の功績により讃岐(高松)十万石の領主となるが、翌年の九州討伐では戸次川の戦いで島津軍に大敗し、所領を没収される。天正18年(1590年)の小田原討伐で挽回して大名に返り咲き、小諸藩主となる。

 

 

 

◎長いものに巻かれず、謝るべきは謝る道理を通す心理

 

直江兼続

 

主君や家臣を守り、領民からも愛された股肱の臣

 

 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭してきます。豊臣方の石田三成と懇意にしていた上杉家の直江兼続は、家康との対立を決意。そして家康の度重なる上洛要求などを拒み、関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしました。このときに、家康を激怒させた直江状なるものを書いたといわれています。

 その後、関ヶ原の戦いで三成ら西軍が敗れたため、家康に降伏することになりました。慶長6年(1601年)、兼続は上杉景勝とともに上洛して家康に謝罪します。その結果、会津120万石から出羽米沢30万石へと減移封されてしまいますが、上杉家は存続を許されました。

 戦国時代から江戸時代まで、長い戦いの時代を生き延びていくには、勝ち馬に乗ることが必要不可欠な条件となっていました。戦争に明け暮れていたおかげで、武士としての忠義もさることながら、生き残るためには強い人間につくことがいちばん得だと誰もが思っていたのです。秀吉の死後、実力と名声のある勝ち馬と目されたのが家康でした。関ヶ原の戦いでは、その勝ち馬に乗る大名が続出したから天下を取れたのです。

 そういった状況下で、上杉景勝は豊臣に義があるとみて徳川の勝ち馬に乗らず対決することにし、その重臣である兼続は徳川を挑発したわけです。

 相手が強くても非があれば諭したり、義を貫くような行為は、無謀に思えます。しかし逆に、義を通し道理をもつ人間という評判は得られます。その場では損な役回りですが、その反面、必ず道理を通していることで「こいつは裏切らない、悪いことはしない」とみられ、そのように道理の通った人ほど、後世まで人々に語り継がれるようになるのです。

 義に厚く道理を通す、のちに名前を残すような正義の人を、敵だったからというだけで罰したら後味が悪いものです。また、裏切らない人間を味方にしたいという真理は、リーダーをくすぐります。家康も、きちんと謝罪に来た景勝と兼続を許したので、家が存続できたのです。

 主君である景勝は謝罪などせずに徹底抗戦する道を選べたかもしれませんが、兼続は、家臣や領民のことを考え、謝罪が最善と判断したのではないでしょうか。謝るべき点はきっぱりと謝るのも道理にかなった行為で、これは周囲の同情的な心理を誘う行為でもあります。

 現在の成果主義の社会でも同様です。道理を通すことで、その場では気まずい雰囲気になっても、いかにトップの人たちの信頼を高めるか、という好例といえるでしょう。また、のちのち、周囲の人間からの好評判が残ることにもつながります。

 愚直の道理を通して、非があれば非を説く、謝るべきときは謝るというまじめな対応の大切さを、直江兼続から学ぶことができるのです。

 

直江兼続(なおえかねつぐ) 

15601620)安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。上杉家の家老。天正9年(1581年)、跡取りのない直江家に婿入りし、執政という立場で、越後の戦国大名から会津領主、米沢藩初代藩主となる主君・上杉景勝を40年間一貫して支えた。

 

 

 

◎最後の最後まであきらめない心理

 

真田信繁

 

たとえ負け戦と決まっていても最後まであきらめない気概の大切さ

 

 慶長20年(1615年)5月、徳川家康は、豊臣家を滅ぼすために20万の大軍で大坂城に攻め寄せました。前年の戦い「大坂冬の陣」の講和後、大坂城の堀はほとんど埋め立てられて丸裸の状態。豊臣方の先鋒・後藤又兵衛率いる5万の軍は早々に敗れ、敗戦必至の状態になりました。

 そこで、真田信繁率いる3000の兵は、徳川家康の本陣に突入を試みます。3度の突撃を行い、家康の本陣に肉薄して旗本勢を蹴散らし、一時、家康は自害さえ覚悟したといいます。

 真田信繁といえば、真田幸村の名で小説やドラマ、漫画にもたくさん出てくる有名な武将です。いろいろな脚色があり、じつにさまざまな人間像で語り継がれてきました。信繁が語り継がれてきたポイントは、負け際のよさということよりも、負けるに決まっている戦いで、起死回生の可能性に賭け、ぎりぎりまで勝ちにいったことだと思います。

 大坂夏の陣というのは、誰がどう考えても不利な戦況でした。そういったなかで家康が出陣してきたということは、信繁らにとって、暗雲のなかに唯一差す光といえるほどのチャンスだったのです。つまり、家康の首さえ取れれば逆転が可能になると信繁は考えたわけです。

 家康は、豊臣家を滅ぼすのに自分が出て行かないと面子が立たないということもあったでしょうが、自分が討たれることはまったく想定していなかったのでしょう。逆にいえば、通常20万人で囲めばいつかは勝てるものです。しかし、豊臣側からすると、家康が出てこなければ起死回生のメドも立たなかったわけです。

 最後までよく戦ったということと、本当に敵に攻めていったということでは意味が違います。講談や、真田十勇士など信繁を扱ったさまざまな物語にしても、同情を買ったのではなく、武勇伝として描かれています。

 非業の死を遂げた忠義な人というより、武士として名を残せた、それも、最後の戦国武将という扱いです。父・昌幸や兄・信之と比べ無名だった信繁が、戦国武将の中の有名人になれたのは、あの戦いがあったからです。もし、負けるに決まっている戦いをしなければならない立場になったとき、男としてどういう行動をとるべきか、起死回生とは何か、そして、先々に評価を上げるには何をなすべきかなど学ぶべき点は多々あります。

 家康は、大坂冬の陣終了後、信繁に信濃一国を与えるという好条件を示し味方に引き入れようとしました。本気で勝つために全力を尽くす姿は、家康をして評価するに値するものだったのです。

 現在の格差社会では、勝ち組と負け組がはっきりしているとされ、負け組のあきらめ感のようなものが蔓延しています。しかし、信繁をみるにつけ、あきらめずに強い相手に向かって戦っていこう、ぎりぎりまで勝ちにいこうという気概は、こういう時代にこそ大切だと私は考えるのです。

 

真田信繁(さなだのぶしげ) 

15671615)江戸時代前期の武将。別名・幸村。関ヶ原の合戦では、父と西軍について上田城で徳川秀忠を足止めした。西軍の敗戦で九度山に流されたが、14年後に豊臣秀頼に応じて大坂入城。大坂冬の陣では「真田丸」を築いて知略と武勇を発揮。大坂夏の陣の茶臼山の戦いでは徳川家康の旗下まで突っ込むなど最後まで家康を恐れさせた。

 

 

 

◎生きる術を書物から学び実行する心理

 

貝原益軒

 

やっていればできた、は言い訳

 

 貝原益軒という人は、読書家で、非常に博学であったとされています。ただし書斎にこもることなく、自分の足で歩き、目で見て確かめるという主義の持ち主でした。

 益軒は85年にいたる生涯で、実に多数の著書を残しています。その数ある著書のうち、晩年の『養生訓』(84歳)と『慎思録』(85歳)には、彼の思想や生きざまがとてもわかりやすく著されています。『慎思録』にこのような言葉があります。「知って行はざるは知らざるに同じ」

 これが、益軒の生涯にわたる主義主張だと思うのです。

 この考え方は、心理学的にいうと行動主義です。要するに、やらなければ意味がないという当たり前のことをいっている。こうしなければいけないとか、勉強すればできるはずだし、本当は自分に素質はあるのだ・・・・・と言ったところで、実行しなければ成績も何も上がりません。「やっていればできたのに」と言う人が多いですが、やっていないから、その他大勢の人間と同じになってしまうのです。

 例えば、パソコンやインターネットに少し詳しければ、検索エンジンを考えた人は数多くいたでしょうし、ネットショッピングモールも誰でも考えられたことでしょう。ただ、考えついただけでなく実行に移せる人間がいたから、ヤフーがあり、グーグル、アマゾンがあり、楽天があるのです。

 昔であれば、何か作るにしても、工場を造り、従業員も雇わなくてはなりませんでした。しかし、ヤフーやグーグルを始めたときは少人数だったわけで、思い立ったら行動してみるということがはるかに容易になっています。ただし、思いついたことを実行するにしても、勉強していないとその方法がなかなか見つかりません。

 益軒の偉いところというのは、さまざまな勉強をしたうえで、それを自ら実証したことにあります。知りたいと思ったり、学んでいない人は考えることはできないし、知識を基にアイデアを素早く実行した人が成功する可能性が高まっています。それが現在の教訓といえます。

 パソコンに詳しいだけでなく、世の中のことを知りたいと思ったり、人のニーズを考えているから、検索エンジンやオンラインショッピングを思いつくことができるのです。

 勉強していないと現在の知識社会では勝ち抜けません。しかし勉強した内容が使えなければ、単なる物知りで終わってしまいます。また、やるべきことを考えたものの、それを行わなければ、結局、机上の空論になり、思いついていないのと同じことになる。これは現在の起業家事情そのものを言い表しています。

 勉強して、その内容をどう応用できるか考え、実行しなければいけないのです。

 益軒自身は単なる学者ではなく、プラグマティック(実際的)な人だったのでしょう。ですから、彼の著書は現代でも「生きる術」としてとても勉強になるのです。

 

貝原益軒(かいばらえきけん) 

16301714)江戸時代の儒学者。1664年、藩の儒官として福岡へ帰り、膨大な博識をもって藩士を教える。経験的実学への志向を強め、『大疑録』で朱子の理論を否定して、独特の実践哲学を唱えた。かなの通俗教訓書『益軒十訓』など庶民にもわかりやすい著書が多数。『慎思録』『養生訓』『大和本草』など生涯に60270巻以上を著した。

 

 

 

◎いまだからこそ「和算」を学ぶ心理

 

関 孝和

 

日本人は数学が得意な国民だった

 

 江戸時代、日本には「和算」という、西洋数学とはまったく違う道筋をたどりながら、世界最先端のレベルに達していた日本独自の数学がありました。

 その和算の第一人者が、関孝和。ニュートンやライプニッツとほぼ同時期の人物です。

 当時の江戸には、寺子屋の教科書としても使われた『塵劫記』(吉田光由著)という数学書がありました。九九の掛け算から、米や材木の売り買い、金銀の両替といった実用問題と、盗人算やねずみ算などの数学遊びを図とともに豊富に載せており、明治まで数百種類の亜種が出続けたというほどの大ベストセラーでした。

 この本のおかげで、一般市民でも掛け算割り算ができ、大きい数から小数まで自由に使いこなせたのです。これは世界的に見ても画期的なことであり、のちの日本の発展に大きな影響があったことは間違いありません。

『塵劫記』には答えのない難問が載っていました。これに刺激され、「遺題継承」といって、ある人が作った難問を別の人が解くということが、当時流行したのです。そのなかで一躍注目されたのが関孝和です。

 われわれは普通、紙の上で筆算しますが、そのやり方(傍書法)を初めて考えたのも関です。多元高次連立方程式の解法を必要とする遺題継承に、関はその解答を、自身が存命中に出した唯一の出版物である『発微算法』(1674年)にまとめて世に問うたのです。そのとき、関が使ったのが代数式を筆算する傍書法でした。

 現代のわれわれには不思議な話ですが、それまでは、方程式を解くには算木と算盤という特別な道具が必要だったのです。筆算で計算ができることに、人々は衝撃を受けたのです。

 さらに関は、等比数列を発見することで正十三万角形の周の長さから円周率を11桁まで正確に算出することに成功しています。それだけではなく、行列式、級数の和の理論を、ヨーロッパの数学者、ライプニックやベルヌーイより先に発見していたのです。

 こんな偉大な数学者でありながら、日本ですらその業績はあまり一般には知られていません。関孝和という天才がなぜ生まれたのかを知らなければなりません。日本はこれほど頭のいい人を生んだ国なんだということをもう少し誇る教育があってもいいのではないでしょうか?ノーベル物理学賞・化学賞合わせて4人もの日本人が選ばれ注目されている今こそ、「勉強面での偉人」とでもいう人々をもう少し評価したいものです。

 OECD(経済協力開発機構)による2006年度の「生徒の学習到達度調査」によれば、日本の数学力は、アジアで台湾、香港、韓国、マカオの後塵を拝してしまいました。そういった現実を打破するためにも、関孝和の生涯を学ぶべきでしょう。

 

関 孝和(せきたかかず) 

16421708)江戸時代の和算家(数学者)。本姓は内山氏。幼いころ関家の養子となる。甲府藩主の徳川綱重・綱豊父子に仕え、のちに綱豊が六代将軍家宣となったとき、孝和も直参となって幕府に仕えた。独学で和算が高等数学として発達するための基礎をつくり、算聖と崇められている。

 

 

 

◎浪人でも優秀な人を重要ポストに起用する心理

 

新井白石

 

組織には、能力を見抜く眼力と、その人を重職に就ける柔軟さが不可欠

 

 新井白石というと、儒学者であり、歴史書や随筆の著者としても有名な人物。和漢洋のさまざまな知識を吸収して、幕府政治に積極的に発言し、六代将軍家宣、七代将軍家継という二代の将軍が行った正徳の治という改革をブレーンとして推し進めた重要人物でもあります。

 江戸幕府が安定した元禄のころになると文化が栄えましたが、そのかわりにインフレがおこりました。長崎貿易で赤字なのに、いろいろな買い物をしたり、さまざまな場所に神社仏閣を建てたりして、お金を使いすぎたのです。お金が大量に必要なので金や銀の割合の少ない金貨を発行し、結果的にインフレを招いたわけです。

 白石は、外交政策で朝鮮通信使の待遇を簡略化し、外国の状況をつかむことは怠らなくても、無駄金は使わないという形で対応しました。長崎貿易に関しても、日本の通貨を使って物を買うことは貿易ではないという発想をしました。また、生類憐れみの令や酒税を廃止し、倹約により財政を抑えることでインフレの沈静化に努めたのです。これは、現代の日本が行政の無駄を減らそうとする構造改革に通ずるものがあります。

 この幕府の構造改革を、浪人上がりの新井白石が行ったことに意味があると思います。浪人上がりの政治顧問が、なぜうまく改革を成し遂げられたのでしょうか?

 まず、彼を登用しその発言を重用した、六代将軍家宣とその周りの幕閣がとても柔軟に対応できたこと。封建体制の幕府政治というと、とても敷居が高く、権威を振りかざすようなイメージを抱きがちですが、浪人上がりを重要ポストにつけるほど、柔軟な思考をもった組織であったということです。

 次に、そのような幕府の大きな期待に応えられるだけのさまざまな勉強を白石がしていたことが挙げられます。彼は、儒学をしっかり勉強していて道徳や人の道に明るいため、非常に説得力があったのでしょう。学問の裏づけがある形で説得されると、身分が高い相手であっても逆らいにくい心理にもっていけるケースが多いのです。

 また、外国についてもよく勉強していました。白石は、外国の状態や経済の仕組みをわかったうえで、外国と付き合うにはどうすればいいのかよく理解していたのでしょう。

 さらに、計算力も強く、数字に基づいた経済政策ができたのだと思います。例えば、通貨の流通量を減らせばインフレが沈静化するというのは、今の経済学では当たり前のことですが、江戸時代ではなかなか思いつくことではないはずです。ある意味、新井白石という人は日本が誇るべきエコノミストといえます。

 現代の経営者には、浪人であっても優秀な人材を見つける目と、その人物を要職に迎える柔軟な思考が必要です。そして、そういった企業があるからこそ、浪人であっても腐らずに勉強を続けるべきなのです。

 

新井白石(あらいはくせき) 

16571725)江戸時代の儒学者。長く浪人生活を送り、30歳で木下順庵の門に入る。元禄6年(1693年)、順庵の推挙により、甲府藩主徳川綱豊(後の家宣)に仕える。宝永6年(1709年)家宣が六代将軍を継ぐと、間部詮房と共に側近として「正徳の治」を推進、幕政の改革にあたる。享保元年(1716年)吉宗が将軍になると退けられ、晩年は著述に努めた。

 

 

 

◎晩年に不遇になってしまった天才の心理

 

平賀源内

 

よく学び、豊富な知識で多才な人が孤独になってしまった理由

 

 平賀源内という人は、江戸時代のダヴィンチといわれるほど、発明から芸術、作家活動にまで幅広い天才ぶりを発揮したことで知られています。われわれが源内から学びたいのは、発明や発想というものは、天性のひらめき以上に、たくさんの知識からうまれるものだということです。

 現に、源内は13歳から藩医のもとで本草学と儒学のほか、俳句も学びました。長崎へ遊学してオランダ語、医学、油絵を学び、さらに江戸に出て漢学を習得しました。そしてまた長崎へ行き、鉱山の採掘技術まで学んだといいます。

 数学者の藤原正彦さんふぁ「ニュートンでも解けなかった問題でも私が簡単に解けるというのも、数学の解法にまつわる知識が多いからだ」と著書に書いているように、考えるためのヒントになるような知識を多くもっているほうが、ぱっとひらめいたり、人が思いつかないような意外なことが考えられたりするのです。

 エレキテルひとつとってみても、電気という知識を蘭学から仕入れていなければ、思いつたかどうかわかりません。知識が豊富だったからこそ、壊れている機械を、そこから類推して復元できたのでしょう。

 このことは、創造性を発揮するためにはさまざまな分野から知識を仕入れることが大切だ、ということを教えてくれます。

 源内については、さまざまな芸術作品やエレキテル、火浣布(石綿)の考案など後年評価されたものが多いわりに、当時は周りからあまり相手にされていなかったようです。封建的身分制度の社会に源内のような破天荒な人は受け入れられなかったのでしょう。

 天才であるが故の不遇であった人生において、われわれに警告すべきことがふたつあると思います。

 ひとつは、源内は自分の才能を結果として生かせなかったということ。自己アピール力や、認めてくれる人を探す能力といったものが欠けていたのだと思います。もうひとつは、晩年の殺人を含む彼の奇行の意味です。

 最近、脳の研究が進むにつれて、五十代あたりから、感情のコントロールができなくなったり、疑い深くなっいくなどのさまざまな問題が、実は前頭葉の老化のために起こるのではないかと考えられるようになりました。仕事で高い地位にいたり権限をもっていたり、周りの人から立てられていると、そういったことが起きにくいようです。不遇であったり、周りからそっぽを向かれたりすると被害妄想的になってしまう危険性は、年配になるほど高くなるのです。

 中高年以上の人々に接するときに、ないがしろにするというのはよくありません。むしろ、引き立てたり、学ぶべき点を褒めたたえたり、得意な分野の役職を任せるなど活躍する場を与えるほうが、実は能力を発揮させるものだと私は考えます。

 

平賀源内(ひらがげんない) 

17281779)江戸中期の博物学者・戯作者。讃岐高松藩出身で、長崎に遊学後、江戸に出て活躍。西洋技術を取り入れて寒暖計、エレキテル(摩擦起電機)などを復元製作し、火院布(石綿)、源内焼などを考案した。戯作者として浄瑠璃『神霊矢口渡』、談義本『風流志道軒伝』などを執筆。晩年は不遇で、口論から人を2人殺傷して投獄され、獄中で没した。

 

 

 

◎幕臣が幕府に逆らってまで反乱を起こした心理

 

大塩平八郎

 

筋の通った反乱は後世に称えられる

 

 天保4年(1833年)から数年間にわたって起きた天保の大飢饉により、大坂でも米不足が起こりました。

大坂奉行所の元与力で、当時は陽明学者として知られていた大塩平八郎は、奉行所に民衆の救援を直訴しました。しかし、拒否され、自らの蔵書をすべて売却するなどして、その救済に当たっていました。にもかかわらず、大坂町奉行は、豪商から購入した米を新将軍就任儀式などのため江戸へ送り、豪商はさらに米を強引に買い占めて、米の値段は通常の7倍になったといいます。

 天保8年(1837年)、業を煮やした平八郎は、自らの家財を投げ打ち、大砲などの火器を整えて、農民や町民に決起の檄文を回し参加を呼びかけたのです。彼は自分の自宅に火をかけ、そこから乱が始まりました。反乱軍は農民や大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となり、鴻池屋をはじめとする豪商家に大砲や火矢を放ちました。

 しかし、もともと武器を持ったことのない農民や町民たちなので、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまいます。彼は40日あまり潜伏しましたが、逃げ込んだ先に出入りする奉公人に通報され、自決しました。

 大塩平八郎は、陽明学の思想から、政治を安定させるためには民をあまりいじめてはいけないと考えていました。この点で、彼のやったことは反乱には見えても筋は通っていたと私には思えます。役人であった人が時の政府に逆らってまで筋を通したことは、現世よりも死後の名声に大きな影響をもたらしました。

 反乱そのものは失敗しましたし、自己実現もできなかったうえ、民を救うどころか、幕府はその後、さらに民衆に厳しくなりました。結果からすると単なる反乱者扱いになりますが、当時の庶民は圧倒的に大塩平八郎を慕いました。特に大坂のような町民の文化が強い町では、いい話は消そうとしても残るものです。筋を通した世のためになること、正しいこと、また一般大衆を味方につけることをしておくと、名誉は残るのです。

 世の中は、利害が複雑にからむために、筋を通しても理屈どおりにはいかないことがたくさんあります。例えば経済学にしても、人間の心理というものが介在する以上、市場が理屈どおりにうごくことは少ないのです。まして、体制に逆らってまで理屈を通そうとすれば、うまくいく確立はかなり低くなります。

 けれど、その一方で、人間には人情というバイアスがかかる分、正しいと信じて進めることを一般大衆が支持することは珍しくなく、後世の名誉を考えたときにはとても有効です。逆に不二家などの事件でもわかるように、現代社会では、筋の通らないことを行った祭の反発は非常に大きくなっているのです。

 現時点での成功を求めるのか、後世に名誉を残したいのかを考える際に重要な示唆のある例といえるでしょうし、さらに、信念を貫き誠実に事を行えば、失敗に見えても将来的な信頼が高まるという実例ともいえるでしょう。

 

大塩平八郎(おおしおへいはちろう) 

17931837)徳川幕府旗本、儒学者。大坂町奉行所で与力を務める一方で、洗心洞という私塾を開いて陽明学を教えた。天保の飢饉では、自分の蔵書を売り払い人々を助けたという。天保8年(1837年)、飢饉に苦しむ人々を救おうと、同志とともに大坂で武装蜂起したが、鎮圧され自決した。

 

 

 

◎人の幸福のために、学び続ける心理

 

田中久重

 

社会や大衆のニーズに応え続けるため、生涯、努力と勉強を重ねる

 

 日本が明治維新以降に文明国家となったと思う人は今でも多いようです。実際には、文化、教育、医療のレベルなどは、もともと世界でもトップレベルだったと言っても過言ではありませんでした。

 江戸時代の発明家としては、平賀源内が有名ですが、江戸時代末期から明治初期に活躍した田中久重は、さまざまな分野で、当時の欧米諸国にひけをとらない発明を続けたことや、現在の東芝のもとになった会社の創業者として、知る人ぞ知る偉人です。

 当初は、からくり人形を作って自ら興行を行うのですが、4本に1本はわざと射的を外すというアイデアで、技術レベルだけでなく、エンターテイメントのセンスのよさでも一流の人でした。

 その後は、大衆のニーズに合った実用品の発明に転じ、携帯用懐中燭台を発明します。これは、夜間に仕事ができなかった商人や往診の医師などに重宝がられました。さらに大塩平八郎の乱で大阪が焼け野原になると、菜種油がずっと補給されるシステムの「無尽灯」を発明し、大衆を喜ばせると同時にビジネスを成功させます。

 ところが、これで満足しないのが、久重のすごいところです。

 西洋時計を発明するために西欧の天文学を学ぼうと、大金を持って京都に留学します。このときすでに、久重は当時の平均寿命を越える49歳でした。そして、和時計と西洋時計を結合させ、さらに暦にまで対応できる「万年時計」を発明します。

 これを欲しがる大名があまたいるのを断り続ける一方で、国防のため研究を続ける佐賀藩に蒸気船や蒸気機関車の模型を製造したり、故郷の久留米藩には初の国産アームストロング砲を完成させたりもしています。大名の贅沢には付き合えないが、公益のためなら汗を流すということでしょう。

 明治に入ると政府に招かれ、国産の電信機や、独自に電話機を作るまでしているのも、その姿勢の延長といえるかもしれません。

 このように当時の西欧にもいないレベルの天才的発明家だった久重は、子供時代から発明の才が並外れていたという逸話があり、またこんな名言を残しています。「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」

 外から見ると天才としか思えない人でも、実は失敗を重ね、忍耐強く努力することで結果を出していたのです。

 49歳で天文学への弟子入りだけでなく、開国後や明治以降に目まぐるしく流入する西欧の新技術を習得すべく、学び続けたのも驚異的です。独自の電話機や、日本中に時報を伝える「報時器」を発明した際には80歳近かったのです。

 努力や忍耐を重ね、公益を常に考える点で、まさに日本の誇りというべき天才の好例でしょう。

 

田中久重(たなかひさしげ) 

17991881)福岡県生まれ。べっ甲の細工師であった父譲りのセンスを受け継ぎ、幼少時から才能を発揮。次々とからくり人形の仕掛けを開発し、日本全国に名が知れ渡った。その後、蘭学など西洋の技術、文化を学び時計などの開発に携わった。晩年には通信機を扱う田中製作所を設立。この製作所が合併などを経て、現在の東芝の基礎となった。

 

 

 

◎努力を惜しまず生涯最高レベルを目指す心理

 

緒方洪庵

 

学者として、医師として、そして教育者としても最高レベルを目指す

 

 明治以降の日本が短期間で欧米に追いつくことができた大きな要因として、指導力層の教育レベルの高さは否定すべくもありません。

 そのベースを作った江戸末期の最高の教育者といわれるのが、緒方洪庵です。彼の主宰する「適塾」からは、福沢諭吉をはじめ、日本陸軍の創始者・大村益次郎、日本赤十字社の創始者・佐野常民、そのほか橋本佐内、大島圭介など幕末から維新にかけてのビッグネームを次々と輩出しました。

 適塾は、広く門戸を開き、長年続けられたこともあり、塾の姓名録に著名のある者だけで636人、教えを乞うた者は3000人に及んだとされています。近代教育が始まる前としては、驚異的なことです。これだけの数の人に高等教育を一人で与えたのですから、その影響は計り知れません。

 緒方洪庵は、このような優れた教育者であると同時に、自らが一流の学者であり、そして医師としても最高レベルを究めたことに驚かされます。

 学者としては、大坂の私塾で蘭学を修めた後、長崎に遊学してオランダ人医師のもとで医学を学び、日本最初の病理学書を著したり、ドイツの有名な内科書を訳したりしたことでも知られています。彼の学者としての姿勢は徹底しており、翻訳のために漢字が必要と考えると、それを高いレベルで学び始めます。また、これからの時代はオランダ語だけでなく英語も必要と考え、晩年には英語学習を開始しています。

 医師としては、浪花医者番付で最高位の大関まで上り詰めたほどでした。福沢諭吉が入塾中に腸チフスを患った際には、その療養中に、医師として治療にあたったばかりでなく、手厚い看病まで行いました。それ以上に私が評価したいのは、患者のために必要と考えると、蘭学の名医でありながら漢方にも力を注いだことです。

 さらに、学んだことをすぐに実践に移す姿勢にも頭が下がります。

 当時、多くの人の命を奪っていた天然痘の予防法としてジェンナーが種痘を開発。その痘苗が日本にもたらされるとすぐに種痘所を開設し、各地に種痘の技術を広めます。同じように安政51858)年のコレラ流行時には、西洋医学の知識をもとに治療の手引書を出版し、医師に配布するなど素早い対応を行いました。

 今の医学の世界では、専門性にこだわりすぎて東洋医学をあまりに軽視していたり、研究を重視するあまり、実践を軽んじる傾向が問題になっていますが、私からみると洪庵こそが、教育と研究と実践を鼎立させた最高の教育者といえるのです。

 どんなことでも努力を惜しまず、晩年まで最高レベルを目指すことこそが、多くの弟子に語り継がれ、歴史にも名を残す結果につながるということを身をもって教えてくれる人物であるといえるでしょう。

 

緒方洪庵(おがたこうあん) 

18101863)岡山県生まれ。大坂で蘭学を学んだ後、長崎で医学を学ぶ。その後、大坂に戻り医業を開業するとともに、蘭学塾「適塾」を開く。医業ではコレラ、天然痘の予防に努めた。適塾からは、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出し、医者としても教育者としても大きな功績を残した人物である。

 

 

 

◎国を強く意識し、愛国を優先させる心理

 

勝 海舟

 

まず国の利益を考え、日本が生き残るために尽力する

 

 幕末の歴史では、討幕側のヒーローは無数にいます。大河ドラマの主人公だけでも坂本龍馬に限らず、西郷隆盛、大村益次郎、大久保利通がいますし、その他思いつく名前も枚挙に暇がありません。

 それに対して幕府側の人間では、新撰組の面々を省くと、誰もが認めるヒーローは勝海舟でしょう。

 彼の最大の功績は、江戸城の無血開城とされています。ここで戦争が起こらなかったおかげで、江戸の住人150万人の生命や財産が戦火から救われました。

 これについては、海舟の活躍により、幕府側が何の抵抗もせず新政府に江戸城を明け渡したということが高く評価されるわけですが、倒幕に燃える新政府軍と、徳川家を守ろうとする幕府側の主戦論者の両方を収めるのは相当困難なことでした。実際、新政府側が当初出してきた降伏の条件は、徳川慶喜の身柄を備前藩に預けろとか、その暴挙を補佐した人間を厳しく処罰せよといった、慶喜を犯罪者扱いにする、幕府側がとても受け入れられない内容でした。

 海舟はあらゆる手立てを使って、もう少しのみやすい条件での無血開城案を西郷隆盛に受け入れさせようとします。新政府軍を援助していたイギリスの行使から圧力をかけさせたり、民衆をさせたうえで、江戸の市街地に放火する準備があることを伝えるなどです。

 一方で、新撰組や伝習隊などが暴走して新政府軍を迎撃しようとすることを事実上黙認し、強硬派にも勝ち目がないことをわからせるように仕向けたそうです。

 結果的に江戸は市街戦を免れたわけですが、多くの住民が救われた以上のメリットがありました。それは、首都機能をもつ都市を新政府が無傷で手に入れたことで、これがこの後の日本の発展の礎になったのはいうまでもありません。

 この海舟の働きの背景には、日本という国の将来を考えた愛国観が大きいと思います。内戦が続けば、国力が弱まり、日本もほかの国々のように欧米列強の手に落ちてしまうと考えたのでしょう。

 おそらく、海舟は日本で最も早い時期に幕府や藩という発想から脱し、日本という強い国を作ると考えたと同時に、その方法論は常に現実的でした。

 早くから開国論者であったために櫰夷派からは命を狙われますが、暗殺に来た坂本龍馬を説き伏せて弟子にしたという有名なエピソードもあります。日米修好通商条約批准のための使節派遣の際には、すぐに渡米のチャンスを得ます。さらにそれによって幕府での地位が上がり、軍艦奉行になった際には、幕府の海軍でない「日本の海軍」を目指したために、逆に保守派から睨まれて罷免されてしまいます。それでも信念を貫き通した成果が無血開城なのでしょう。

 愛国というのは、建前でなく現実的なものでないといけないことを教えてくれる人物といえます。

 

勝 海舟(かつかいしゅう) 

18231899)本名は義邦(よしくに)、明治維新後に安芳(やすよし)に改名。長崎にて航海術の訓練を受け、万栄元(1860)年には咸臨丸に乗り組み渡米。帰国時には日本人だけでの太平洋横断を成功させた。帰国後はさまざまな職を歴任。戊辰戦争では新政府側と幕府側の間で奔走し、江戸の無血開城を実現させた。

 

 

 

◎国のためにすべてを尽くすインテリの心理

 

小栗忠順

 

「優秀な官僚とは何たるか」を今なおわからせてくれる

 

 万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准のため、幕府の遣米使節として小栗忠順は34歳で渡米しました。通貨交換レートの交渉においてその計算力の高さをアメリカの新聞などで高く評価されたといい、帰国後、勘定奉行に就任。幕府の財政運営のポストでした。忠順は製鉄所(造船所)建設の必要性を説き、幕府の財政が逼迫しているにもかかわらず、強行に推進。慶応元年(1865年)に、横須賀製鉄所が起工されました。のちに、この判断が、横須賀の発展や、日本の近代化に大きな影響を与えたといわれます。

 大政奉還後の慶応4年(1868年)、徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦に破れ江戸に戻ると、忠順は、こののち新政府になる軍と最後まで戦うべきだと強引に主張しました。しかし幕府は戦争を回避したい意向であったため、忠順はお役御免を申し渡され、上野国権田村(現群馬県高崎市)へ退きました。この後、新政府は、徹底抗戦を主張した忠順を許さず、彼は斬首されてしまいました。

 忠順が歴史上で活躍するのはアメリカから帰国後わずか8年間くらいですが、業績の中身が非常に濃かったのです。ざっと挙げてみると、洋式陸軍制度導入、日本初の株式会社設立、仏語伝習所開設、鉄山開拓のほか、提唱したものとして郡県制度、ガス灯設置、郵便・電信制度設立、鉄道敷設、新聞発行・・・。とにかく、ひと言で言うと、優秀な官僚とは何たるかという見本のような人だと思います。

 勘定奉行の立場から、税金を集め、予算配分をするだけでなく、もっと将来への投資という視点からお金を使うことを断行したのです。私利私欲のない官僚がしっかり方向性を見極めて、国の危機的状況を脱していくというモデルをつくった人ではないでしょうか。また、いま何が必要かという状況判断力に優れていたからこそ、徹底抗戦を主張し、それを採用しなかった幕府を哀れみ、隠棲したのでしょう。そこには保身や権力欲といった一般的な心情はほとんど感じられません。幕府のため、日本という国を思っての強く潔い心理が働いていたのだと思います。

 規制緩和や官僚の力を弱めることを訴え、中央集権的なものから脱却し、市場原理に任せろというのが今の日本の改革の流れです。しかし、現実に明治の体制のなかで、アジアの二流国家から世界の先進国に仲間入りするときも、また戦後のぼろぼろの状態から復興して先進国となったときも、優秀な官僚の視野や見識が日本という国の大きな原動力になったことは素直に認めなければなりません。

 優秀な官僚である彼の主張を採用せず、罷免してしまった幕府と、敵というだけで裁判もせず斬首してしまった新政府。ビジネスリーダーとして、優秀な人材を活用するという点において、小栗忠順の短い人生から学ぶべきことはとても大きいと思います。

 

小栗忠順(おぐりただまさ) 

18271868)幕臣。万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換使節として渡米。帰国後、勘定奉行、軍艦奉行などを務め、横須賀製鉄所建設、関税率改訂など動乱期の困難な幕府を支えた。戌辰戦争に際し抗戦論を主張して罷免され、隠棲していたが、新政府軍により斬首された。

 

 

 

◎トップと若手を結びつける幹部としての心理

 

小松帯刀

 

エリートでありながら、下の者を理解し薩摩藩をまとめ上げた

 

 慶応2年(1866年)に薩摩藩と長州藩との盟約である薩長同盟、慶応3年(1867年)に薩摩藩と土佐藩との連盟である薩土同盟が結ばれました。この諸藩との交渉において大きな功績を挙げたのが小松帯刀です。薩摩藩の家老として京都で長州藩や土佐藩との交渉をまとめたキーマンといえます。

 幕末から明治維新という歴史の変わり目を考える際、旧来の権威のなかに進歩派へのよき理解者がいたからこそ革命が円滑に進んだということは見逃されがちです。いくら薩摩や長州が外洋大名で幕府に不満をもっていたところで、下級の人間の言うことを素直に聞いて、藩の方針として倒幕をしようなどという話には、おいそれと乗れるものではありません。特に江戸時代は封建制度が厳しく、身分が違えば言葉を交わすことすらできない時代。現代でさえ、重役クラスが新人社員の意見を聞くというのは、そう簡単ではありません。

 そこで、能力や意欲が高い下級武士と、実際の権力を握る藩のトップとの間を取りもつ人の存在というものは非常に大きかったはず。特に、明治維新に名を残している人は武士でも下級の人が多かったのです。藩を挙げての戦いをしたということは、下級武士の言い分を藩の上層部が聞いたことを意味しています。なかでも小松帯刀は幹部でありながら、下級藩士にすぎなかった西郷隆盛や大久保利通を庇護し、そのよき理解者となったのです。

 それだけでなく、さらに帯刀の偉いところは、自分でも動いていることです。土佐藩を脱藩した浪士だった坂本龍馬の亀山社中(海援隊)設立を援助したり、長州藩の桂小五郎を自分の屋敷にかくまったりもしています。

 歴史のなかでは、こういったキーマンの存在を意外に見逃してしまいますが、起業するとか、何かを始めようというときに、権威者との間をつないでくれる、新しいことに対して理解のあるキーマンを一人つかまえられるかどうかは、実現への大きなポイントになるものです。

 ある程度大きなビジネスを興したいと思うなら、誰かに見いだされ、出費してもらわなければ、現実には難しいでしょう。一個人とスポンサーや権威者との間に入って「これなら出費してあげよう」「君のやっていることはなかなかおもしろいじゃないか」と賛同させるようなつなぎ役、キーマンがいなければ、ソフトバンクであれマイクロソフトであれ、現在のような大企業にはならなかったとされているのです。

 小松帯刀というキーマンがいたからこそ、歴史が変わった。現代のビジネスシーンでも、帯刀のように、上と下をうまくつなぐ役割を果たし、自らも行動できる幹部が必要だといえるでしょう。

 

小松帯刀(こまつたてわき) 

18351870)幕末の志士。薩摩喜入の領主・肝付兼善の子として生まれるが、小松清猷の養子となり、藩主・島津斉彬の小姓に。その後、藩政改革派として藩政に携わり、家老職に就任。慶応2年(1866年)1月、西郷隆盛とともに木戸孝允らとの間で薩長連合を締結。翌年(1867年)10月、将軍・徳川慶喜に大政奉還を進言した。明治新政府でも参与として重要な役割に就くが、36歳で病死。

 

 

 

◎時代に応じて周囲のニーズに応える心理

 

岩崎弥太郎

 

武士の時代には武士として、資本主義の時代には商人としてのベストを目指す

 

 明治維新というと、日本が古い体制を捨て、富国強兵を通じて欧米の列強に仲間入りしようとするある種の大革命です。そこでは、国を近代化するだけでなく、資本主義の体制を整えていかないといけません。

 第18回では、初めて株式会社を作った坂本龍馬を紹介しますが、欧米の大資本に対抗できる巨大財閥三菱の始祖である岩崎弥太郎も同じ土佐の出身です。 

 さて、この岩崎弥太郎という人物の足跡を追っていくと、時代、時代に合った勉強の大切さを痛感させられます。

 実家は、武家のなかでいちばん低い身分である地下浪人の出だったのですが、その貧しい家庭のなかから幼少のころより、土佐では最高のレベルの学問を修めます。14歳のころには藩主に漢詩を披露するほどになっていました。21歳のときには江戸へ進学に行っていますが、その費用は先祖伝来の山林を売ってのものだったとのことです。帰国後は土佐藩随一の学者・吉田東洋の門下生となりました。

 当時の下級武士が出世するには学問で身を立てるしかなかったとはいえ、弥太郎はその才能をいかんなく発揮し、東洋の抜擢で、海外貿易を行う際の市場調査団などを任されます。

 職務が、まさにこれからの時代に必要な学びの場だったわけですが、これに限らず、弥太郎のすごいところは、どんな場面も学びにつなげることです。父親の免罪を訴えて、逆に郡奉行所の怒りを買い、投獄された際にも、同房の商人から算術や商売の極意を学んだといいます。

 長崎では遊びが過ぎて、切腹を命じられるところまでいったものの、再度、長崎に赴任する際には、そのときに覚えた遊びを外国人に使うことで、ビジネスチャンスを広げていきます。

 その後も土佐藩の商務組織、土佐商会の主任を経て、明治維新になると土佐藩の借金を引き受ける代わりに資産も引き継ぎ、海運王となっていくのですが、ビジネスに転じると、ビジネスの流儀への変わり身も見事でした。国有企業の日本国郵便蒸気船会社の態度が大きいのに対して、三菱は、常に笑顔で接するため、客の評判が非常によかったというのです。元武士の従業員に、小判の絵を描いた扇子を渡して、「客を小判と思え」と指導した結果だそうです。

 一般的な学問に始まり、外国事情、商売の心得など、その時代に必要になりそうなことを常に学び続けることで、弥太郎は日本最大の財閥の礎を築きました。

 それ以上に私が評価したいのは、この時代にそのような人材が足りないことを見越して、船員育成のために商船学校(現東京海洋大学)、ビジネスマン育成のために商業学校を作ったことです。激動の時代こそ教育が大切だということを、岩崎弥太郎はまさに教えてくれる人物といえるでしょう。

 

岩崎弥太郎(いわさきやたろう) 

18351885)土佐国(現在の高知県)生まれ。藩の貿易と経理関連業務に携わった後、海運業に従事。三菱商会を設立し成功を収めたが、競合他社との熾烈な戦いの最中、50歳で病死。三菱グループの創始者として知られる。日本を代表する実業家の一人。

 

 

 

◎命がけで「根回し」を行う勇気を出す心理

 

山岡鉄舟

 

地味だが、捨て身の説得で戦争を回避

 

 明治元年(1868年)3月、幕府の旗本であった山岡鉄舟は、勝海舟の使者として、官軍の大参謀であった西郷隆盛と、駿府(静岡)で会見しました。敵中、堂々と捨て身の覚悟で会いに行ったといいます。そこで、幕府側の希望条件である「徳川家救済」と「戦争回避」について直談判しました。

 西郷は鉄舟の、実直で、命も名誉もいらないという捨て身の説得に感銘し、官軍としては譲れなかったであろう、徳川家の存続(将軍慶喜の引き渡しが要求されていた)という条件を受け入れました。これにより、のちの勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城のきっかけをつくったのです。

 江戸城の無血開城というと、歴史の授業などでは、勝海舟と西郷隆盛が談判して即決したように解説されることが多いですが、実はその前に山岡鉄舟が「根回し」をしていたということはあまり知られていません。江戸に迫る官軍に対して、勝海舟が山岡鉄舟に根回しを託したわけなのです。

 圧倒的有利な立場の相手がどの程度であれば譲歩してくれるか。ここが交渉のポイントでした。鉄舟も海舟も将軍の命を守るのが任務で、「徳川慶喜を官軍に渡す」という条件だけはのめなかったでしょう。逆に西郷はクーデターを起こす側ですから、将軍預かりどころか、無血開城では、士気が下がってしまいます。

 ここまで立場が違うと、どんな大人物同士であっても、事前の根回しがなければ即決できません。官軍は、勝てるに決まっている戦争だったわけですから、ひとつも譲歩する必要はなく、使者を殺せとも言いかねない状態でした。

 そのため、西郷を説得するだけでなく、即決させることはとても大切でした。官軍にも幕府側にも「江戸で戦争をする」強硬論者が数多くいたため、なかなか決まらなければ無血開城は困難になってしまいます。その根回しはとても大切な任務だったのです。

 ビジネスの世界でも、コネがまったくないにもかかわらず、トップ同士で話し合いをしなければまとまらないというケースはままあります。そこで、相手の懐に飛び込むことが可能で調整能力の高い人材が重要になります。ライバル企業でこれまで競合していたり、過去に遺恨があったりしたケースなどでは「トップに会わせてくれ」といってもなかなか会わせてくれないと思います。が、何らかの形で「どうしても社長さんとお話がしたいんです」と言える人が必要なのです。

 ここで注目すべきは、殺されても不思議でなかった状況で、鉄舟は非常に勇気をもって行動したにもかかわらず、担った仕事は「根回し」というきわめて地味な役割だということです。地味だけれども重要で勇気が必要で、しかし誰に評価されるわけでもない。

 人間、命がけでやるならば「なるべく重要で目立つ」ようなことをやりたがる心理が働きがちです。そういった意味で、地味であろうとも、自分の役割を命がけで果たした山岡鉄舟の勇気と人心掌握術を見習いたいものです。

 

山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

18361888)幕末の幕府旗本。明治時代になってからは、新政府の役人、明治天皇の侍従などを務める。千葉周作門下の剣客として知られ、幕府では剣術世話役。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。

 

 

 

◎激動の時代に自分の信じた道を突き進む心理

 

坂本龍馬

 

もし、暗殺されなければ世界に名を残す実業家になっていた?

 

 坂本龍馬は、日本で最初に「ブーツを履いた」「新婚旅行をした」など斬新で奇抜なエピソードを数多く残し、個性的な人物として知られています。けれど、龍馬が残した数多くの功績のなかからいちばん注目したいのは、日本で最初に株式会社(カンパニー)を作ったということです。

 慶応元(1865)年5月、龍馬は同志とともに長崎の亀山に海運業などを中心とする貿易会社、亀山社中(のちの海援隊)を設立しました。その際、薩摩藩から出資してもらう形をとったため、亀山社中は日本最初の株式会社といわれています。

 それまでの日本の商業というものは、もともと豪商であるか、官に守られていなければ成り立たないものだと考えられていたので、事実上、それ相応の地位にある者にしかビジネスチャンスはありませんでした。

 そのため、身分や血筋、人種などはまったく関係なく、能力さえあれば、資本を集められ起業できるという資本主義の考え方は、画期的なことだったのです。

 龍馬は政治的な権力争いや、身分や地位を高めるといった政治的野心がなかったと、よくいわれています。それはおそらく、日本を変えたいという一心でさまざまな活動を続けていくなか、ある段階で、自分がビジネスの世界で活躍すると決断したからではないでしょうか・そして、それが日本の将来のためになると信じた。つまり、自分もビジネスの世界で活躍して、資本主義の考え方で経済を発展させることで日本の国力を高め、他国と互角に渡り合うことができるという強い信念があったのだと思います。

 慶応31867)年、京都・近江屋にて中岡慎太郎とともに暗殺され33歳という若さで生涯を終えた龍馬ですが、もし暗殺されていなかったら、私は日本の中にとどまらず、世界の歴史上において、実業家の偉人として名を残すことになっていたのではないかと思うのです。

 薩長同盟締結の際には薩摩と長州の仲介役を務めるなど、龍馬は裏方的な役割も厭わず、コーディネーターとしてのスキルの高さを感じさせます。また、龍馬にとっては抵抗勢力のリーダー的存在であった勝海舟に諸外国の情報を聞くため、頭を下げて弟子入りを請うというエピソードからは、自分の主張を押し通すだけでなく、柔軟な姿勢があったことも伺えます。常識にとらわれない大胆な発想力と柔軟な対応力、そしてグローバルな視野をもっていた龍馬が、世界を相手にビジネスで成功を収める姿は想像に難くありません。

 世の中が平等社会に変わる、つまり封建社会が終わったあとに資本主義の時代がくることを龍馬はわかっていたのではないかと考えると、その先見の明と判断力には驚かされます。

 

坂本龍馬(さかもとりょうま) 

18361867)亀山社中(のちの海援隊)の設立や大政奉還の実現に尽力するなど、志士として活動し、多方面に影響を与える。33歳のとき、薩長同盟締結のため活動していた中岡慎太郎とともに暗殺され、短い生涯を閉じる。現在も国民的な人気を誇り、2010年にはNHK大河ドラマ「龍馬伝」が放送。

 

 

 

◎書く力で、後世に名を残す心理

 

中岡慎太郎

 

坂本龍馬に薩長同盟を説き龍馬とともに暗殺された志士

 

 歴史を後世から眺めてみると、「運命のいたずら」としか言いようのない事件や人物に出くわすことがあります。幕末などはそのいい例で、殺されさえしなければ確実に明治の元勲になれた人が大勢いますし、同じような仕事をしてきたのに、後世の評価や知名度では、ライバルと大きな差がついてしまうこともあります。

 高知のみならず、全国レベルでも現在最も人気のある幕末の志士といえば、坂本龍馬でしょうが、龍馬を語る際に必ず出てくる名前に中岡慎太郎があります。

 龍馬が海援隊なら中岡は陸援隊の隊長ですし、同じように薩長同盟の成立に尽力し、そのうえ、明治維新の直前に同じ場所で殺されるのですから、まさに宿命の関係といえるでしょう。

 実際、薩長同盟については、龍馬より早くそのための運動を始めており、むしろ龍馬を仲間に引き入れたのは中岡のほうだとされています。

 にもかかわらず、現在では中岡は龍馬と比べて知名度でも大きく後れをとっていますし、一部の歴史家に高く評価されるだけの存在になっています。

 各藩の志士たちと交渉するために走り回っていた行動力と、のちに太政大臣や総理大臣の職に就く三条実美が都落ちしていた際に随臣になるなどの豊富な人脈を考えると、明治維新まで生き残っていれば、相当の地位に上り詰めたとも考えられる人物です。結果的に名も実も取れなかった志士の一人かもしれません。

 現在の名声を含めて、業績のわりに不遇の人生のように思えますが、私は後世の人に再評価を受ける可能性があると考えています。それは、しっかりした論文を残したことが大きいからです。

 そのなかのひとつで大政奉還論を唱えており、書き物であるがゆえに、坂本龍馬や後藤象二郎より前に唱えていた証拠として残るのです。この論文が書かれたのは、龍馬や象二郎が大政奉還を唱える半年も前だったことがわかっています。

 しかも、その論文では、その後に内戦が起こることや、将来、列強と日本との間で戦争が起こることまで予言しています。人間の攻撃性をしっかりと観察し、また国際情勢を十分に把握していないとできないことでしょう。

 実は、坂本龍馬にしても、司馬遼太郎が『龍馬がゆく』を著すまでは地元においてさえ無名の存在で、それまでの土佐の偉人は板垣退助だったそうです。実際、板垣はお札の肖像にもなっています。

 中岡慎太郎の著述や生き方を発掘する有名作家が出れば、龍馬と同じような立場になることもあり得るわけです。

 死後に名を残すため、自分の考えをきちんと著述として残しておくことの意義を教えてくれる一人といえるのではないでしょうか。

 

中岡慎太郎(なかおかしんたろう) 

18381867)高知県生まれ。武市半平太との出会いをきっかけに政治活動を開始。186711月、京都・四条の近江屋にて坂本龍馬とともにいたところを何者かに襲われ重傷を負い、2日後に死亡。坂本龍馬とのエピソードが多く、中岡が表立って語られることは多くないが、薩長連合、大政奉還などの実現に大きな役割を果たした。

 

 

 

◎激動期に、機をみるに敏な行動力で生き抜く心理

 

後藤象二郎

 

歴史に名を残すか、現実的に成功するか

 

 後藤象二郎は、我を張らないといいますか、『機を見るに敏』という処世術において最も必要な能力を持った人ではないでしょうか。

 そういった能力は、幕末という変革期にはものすごく大きな力になったのでしょう。

 彼は、叔父・吉田東洋を暗殺した土佐勤王党を弾圧し、武市半平太を切腹に追い込みます。ところがのちには、武市の親友であった坂本龍馬と仲良くなって、坂本の脱藩の罪を赦免するため奔走。海援隊や陸援隊を資金的に援助します。薩長の倒幕とは一線を画したい土佐藩としては、坂本のアイデア「船中八策」は渡りに船でした。後藤は山内容堂を通じて大政奉還へと導きますが、あたかも自分の策であるかのように進言したといわれています。その経歴を見る限り、世渡り上手です。

 明治維新になったのち、政治家としていろいろなことをやっていながら、さまざまな商売にも手を出しますが、大して成功していない。つまり、自分から何かを始めるには向いていなかったのではないでしょうか。

 変革期のなかにおいて、これまでの自分が言ってきたことにこだわって変節ができないという人もいれば、露骨に変節をしてずるいと言われることもやって、ずっと生き延びる人もいました。

 後藤は、現実に明治30年まで生き、逓信大臣や農商務大臣を歴任しています。結局、当時としてはそこそこ長生きをして、わりと上手に生きた人となります。

 その生き延びる手段として、その場その場でこれがいちばん得であろうと判断している。それが機を見るに敏であり、なおかつ、それを実行できる力なのです。

 そこで、後藤の生涯を見て、歴史上の人物からふたつの観点が学べると思います。

 つまり、われわれが生きるためのモデルとして、坂本龍馬型の人生を選ぶか、後藤象二郎型の人生を選ぶかを考えないといけないということです。

 後藤は早くから殖産興業に注目、長崎に土佐商会を設立し、岩崎弥太郎(のちの三菱財閥創始者)を起用するなど、先見の明もありました。しかし、藩論に反し尊皇攘夷に燃える多くの前途有望な志士たちを弾圧、中岡慎太郎らを脱藩に追い込む一方、山内容堂など偉い人にベタベタしたことで、日本人的に見ると嫌われる要素はいっぱい抱えているわけです。

 後藤象二郎のほうが上手に世渡りをして、生涯を成功者として全うした。得はしているのだれけど、結局、坂本龍馬の功績をパクったとか、何でもまねをしたとかいうので、後世の評価が低いのです。

 誰に嫌われようが、現世で実現することに奔走するか、それとも坂本龍馬のように夢に生き、死して名を残すか、と考えてみたとき、この後藤象二郎の生き方というのは、いい意味でも悪い意味でも見本になると思います。

 

後藤象二郎(ごとうしょうじろう) 

18381897)幕末の高知藩士。明治の政治家。土佐藩主・山内容堂に登用され、藩政の実権を握る。坂本龍馬の公儀政体論に賛同し、徳川慶喜に大政奉還を説いた。維新後は新政府内で要職に就くが、明治6年(1873年)征韓論問題で参議を辞任。板垣退助らと民撰議員設立建白書を提出。1889年黒田内閣の逓信大臣となり、第2次伊藤内閣では、農商務大臣に就任した。

 

 

 

◎おもしろくなきことをおもしろく思う心理

 

高杉晋作

 

ときには命賭けの勝負をする

 

 文久2年(1862年)、攘夷を実行しない幕府に抗議するため、高杉晋作は同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いました。御楯組という11人の小数組組織の隊長であった高杉は、無謀な行動であるにもかかわらず、強いリーダーシップを発揮します。

 文久4年(1864年)、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃。砲台が占領されるに至ると、高杉は赦免されて和議交渉全権を任されます。この講和会議において、連合国は多大な賠償金や領土の租借を要求してきました。高杉は、賠償金は幕府に肩代わりさせるなどして巧く交渉しましたが『領土の租借』については、頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功しました。

 その後、幕府による第一次長州征討が迫るなか、「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」と気勢を上げ、自ら創設した奇兵隊、伊藤博文の力士隊、石川小五郎の遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵します。こうして、長州藩を倒幕に意思統一し、後の明治維新につなげていったのです。

 高杉は、この3年後に世を去ってしまう際、「おもしろき こともなき世を おもしろく」と辞世の句を残しています。もともとおもしろくない世の中と思っていたのが、自分に勇気があったからおもしろく生きられたという意味で受け止められる話ですが、逆に、若くして死に直面するという運命があったものの、時代の変わり目に生きることができたのを、むしろ歓迎したようにも思えます。

 現在は「百年に一度の大不況」といわれる世の中。そういう激変期は、確かに不遇をかこつことがあるし、会社が潰れたり、生活が立ち行かなくなったりすることもありますが、逆に「おもしろく」生きるチャンスともいえます。こういうときこそ、自ら動くかどうかが大切になってくる。運命に流されるより、運命を切り開く人間になっていくのです。

 例えば、子会社の社長に任命されたとしましょう。小さな会社に出向しろというのは、昔なら出世がほぼ絶たれたことを意味していました。また、今のご時勢だと、その子会社が潰れてしまうリスクも非常に大きい。その代わり、そこまでうまくやれたら、本社で重用されたり、別の会社のトップにヘッドハンティングされたりする可能性もあるのです。これまでのパターンと違ってきたと思ったときに「ここが勝負、身も心も賭けてみよう」という心構えと、運命を悪く受け取らずチャレンジする精神が大切なのです。

 高杉晋作は、英国公使館を焼き討ちするなど一見無謀な人に思えますが、ここが勝負だと判断したときに命懸けのことをしてしまう人だったのです。「おもしろくなきことをおもしろく」というのは、自分が動かなければ意味がないことを教えてくれるのです。

 

高杉晋作(たかすぎしんさく) 

18391867)幕末の長州藩の尊王倒幕志士として倒幕運動に大きな役割を担った。吉田松陰の松下村塾で学び、その後、長崎から中国の上海へ渡航。清が欧米の植民地となる実情など見聞して帰国後、身分に関係ない庶民の軍隊「奇兵隊」を創設。幕府との四境戦争で活躍する。肺結核のため病死。

 

 

 

◎持てるものはすべて使い復興にかける心理

 

後藤新平

 

復旧を超えた復興を帝都にもたらすリーダー

 

 大正121923)年に発生した、関東大震災は広範囲に甚大な被害をもたらしました。

 このような巨大な自然災害の被害に対して、「復旧」という言葉を用いず「復興」という言葉を掲げて、被災に苦しむ東京の街を、これまで以上に発展した都市にしようとしたリーダーがいました。

 震災の4週間後に設置された帝都復興院の総裁に就任した後藤新平がその人です。

 もともとは医師だったのですが、ただ病人を治すだけでなく、住民の健康のために海水浴場作りを指導するなど、多くの人をまとめて救うという考えの持ち主でした。こういった発想が認められ、官僚として衛生行政に従事し、有能さを発揮。その手腕を、台湾総督に就任した児玉源太郎に認められ、女房役にあたる民政長官に抜擢されます。ここでの成功から、さらに南満州鉄道の初代総裁に就任、満州経営、特に都市開発に辣腕を振るいました。

 次いで東京市長に就任するのですが、このときには、いきなり年棒の賃上げを要求します。それが通ると、その金額に税金まで自腹を切って、東京市に寄付したとのことです。その費用は、これまであまりおこなわれていなかった社会教育費に充てられたのです。

 そして、大正124月に東京市長を辞していたのですが、同じ年に起こった関東大震災の翌日、内務大臣に就任します。その後、前述の帝都復興院総裁に就任すると、すでに先進国の仲間入りをしようというのに、交通、

特に自動車交通や衛生面において、国際レベルの首都とはとてもいえなかった東京の都市改造に尽力します。

 将来を見越して、まだ自動車がろくに普及していなかった時代に、広い歩道と緑地帯をもつ幅員70mから90mの幹線道路網の整備を計画したのです。現在の東京の幹線道路網はほとんど後藤新平の遺産といっていいくらいなのです。

 ただ、残念なことに財界や野党の反対のために復興予算は大幅に削られ、当初の予定通りのレベルで街路を造ることができたのは、馬場先門のような皇居外苑付近のみでした。今でも、このあたりは東京で最も美しく、道の広いスポットです。

 結果、道路幅の狭さが東京大空襲の際の火災の広がりの元凶となり、戦後の大渋滞にもつながりました。やはり必要なときには、お金をかけるべきということでしょう。今日でも教訓となる話です。

 さて、後藤は、この復興に関して医師としての経験から衛生面に気を使い、台湾や満州の経験から近代都市化を図り、人脈の利用や人材の登用など、自分のこれまでの財産といえるものすべてを投入してこの事業にあたりました。

 苦難のときこそ、過去の蓄積を上手に活用できれば、復興への道が開けるのではないでしょうか。

 

後藤新平(ごとう しんぺい) 

18571929)岩手県生まれ。医師として愛知県医学校に勤務後、官僚に転身し、台湾で活躍。南満州鉄道の初代総裁就任後、内閣鉄道院の初代総裁として入閣。さまざまなポストを歴任した後、国政を離れ東京市長に就任。関東大震災発生当時は市長職を辞していたが、すぐ国政に復帰し、帝都復興院総裁として復興に尽力した。

 

 

 

◎沈黙と緻密な分析で部下を奮起させる心理

 

東郷平八郎

 

じっくりと計算し、どっしり構える沈黙のリーダー

 

 歴史上の人物で、世界的に尊敬される日本人を一人挙げろということになれば、おそらく東郷平八郎になるのではないでしょうか。

 日本海海戦でロシアを破ったことは、海外でも驚嘆され、日本人で最初に『TIME』誌の表紙を飾り、世界中の軍人に憧れられる英雄となったのです。特に新興国のアメリカの軍人たちには非常に崇拝されたようで、戦後の進駐軍も、日本の軍事モニュメントを撤去するなかで東郷に関するものにはいっさい手を触れませんでした。

 さて、日本海海戦の勝利には、情報戦やハイテクの勝利という側面があることは意外に知られていません。

 ロシアの巨大なバルチック艦隊をウラジオストックに入る前にせん滅するためには、海峡を通過する際に集中攻撃を浴びせるしかありません。ところが、対馬・津軽・宗谷の3海峡のどこを通るかわからない。3分の1ずつの兵力に分散させるのでは勝ち目がないので、この予測は重用です。

 ここでロシアの輸送船が上海に入港した入港したことから、対馬海峡を通ると推測したことが勝利の決定的要因になりました。

 そして、軍艦のスペックの上ではロシアのほうが優位だったのですが、日本海軍は最新の無線設備を搭載していました。これによって、敵艦を発見すると素早く情報が伝わり、T字型に展開した艦隊が緻密に連絡を取り合うことで一艦ごとに集中攻撃を浴びせられます。50隻からなるバルチック艦隊で、結果的にウラジオストックに入港できたものはわずか3隻だったのです。

 もう戦えないと判断したロシアはマストに降伏旗を揚げて降伏の意思を示しました。しかし、東郷は攻撃の手を緩めようとはしません。降伏の際、国際法上では降伏旗を揚げるだけでなく機関を停止することを定めていましたが、バルチック艦隊がそれを怠っていたことを東郷は見逃さなかったのです。このことからも、東郷が冷静な観察力と正確な知識を持っていたことがわかります。

 このように日本海海戦は、情報やハイテク機器、そして法律の知識などインテリジェンスの勝利ともいえるもので、東郷の知性は高く評価されるべきでしょう。

 一方で、東郷は「沈黙の提督」としても知られます。黙って背中を見せて、部下を奮い立たせるのです。日本海海戦の際に、三笠という戦艦のブリッジに立ち、微動だにしなかったことは有名です。そして、敵が近づいてもひるむことなく、至近距離となったときに一気に攻撃命令を出します。この沈着な姿が部下に安心感を与え、部下を奮い立たせたことは想像に難くありません。

 同じ沈黙でも、一方で沈思をし、一方では沈着の姿を見せる。勝てるリーダーのありようを示す見事な実例といえるでしょう。

 

東郷平八郎(とうごうへいはちろう) 

18481934)鹿児島県生まれ。薩摩藩士として、薩英戦争、戌辰戦争、宮古湾海戦などに従軍。その後、海軍士官時代にイギリスの商船学校で国際法などを学ぶ。帰国後、日清戦争などで活躍し、日露戦争においては海軍の全作戦を指揮。圧倒的不利とされていた日露戦争で圧勝したことで世界から注目を浴びた。

 

 

 

◎時代に阿ず、時代を変えようとする心理

 

南方熊楠

 

学歴や肩書より学問を追及し、学問的信念から為政者との闘いも厭わない

 

 明治以降の日本は、ビジネスの面でも、軍事力の面でも、欧米に伍していくことを目標に発展を目指すわけですが、真の先進国になるためには、学問や科学技術の面でも欧米に対抗できるようにならないといけない。そういう目的もあって、明治政府は帝国大学など高等教育の拡充に努め、北里柴三郎や野口英世といった国際レベルの研究者が登場します。

 しかし、実は彼らは私立の研究所や海外を主なフィールドとしており、官立の大学や研究所からは国際レベルの研究者が以外に輩出されていません。この傾向は今も続き、日本のノーベル賞受賞者の多くは、海外や民間企業での研究が評価された学者なのです。

 市井の研究者として、国際的には高い評価を受けながら、日本では没後長い間たってから再評価された偉人の代表格に、南方熊楠が挙げられます。

 大学予備門(後の旧制一高)を中退し、学位ももたなかった熊楠ですが、現在でも世界トップランクの科学雑誌とされる『ネイチャー』に50回以上も論文が掲載されたことからも、国際的に超一流の研究者であることがわかります。

 世界のトップレベルの学者の審査によって、この雑誌に一度でも論文が採用されることが世界中の一流の研究者の夢といわれているのに、この掲載回数。しかも、熊楠は粘菌やキノコなどの研究が専門だったにもかかわらず、最初の採用論文は天文学にまつわるものだったのですから驚きです。その後も、彼の博覧強記ぶりは枚挙にいとまがありません。

 熊楠はまた酒豪で奇行が目立ったため、逸話がたくさん残っています。昭和天皇が訪問された際には100点以上の粘菌の標本をキャラメル箱に入れて進献したといい、これが「天皇は神」とされた戦前の話なのです。

 それゆえ伝説的な天才とされるわけですが、権威に阿ることのないこのような姿勢が、実は現在まで彼の名前を残す大きな要因となっています。

 明治政府が国家神道の権威を高めるために神社の統廃合を行い、その際に廃却された境内の森がどんどん伐採されました。このとき、熊楠は日本で始めて「生態系」という言葉を使って、生物は目に見えない部分ですべて結ばれていると訴え、政府のやり方を糾弾したのです。このため投獄されることさえあったのですが、柳田国男などが味方につき、10年たって政府の方針を撤回させました。

 世界遺産に指定された熊野古道の名木も、熊楠の活動がなければ伐採されていた可能性が高いということで、まさに現在に通じる環境活動家でもあったのです。

 権威や肩書を追い求めるのではなく学問的信念を貫くほうが、生前の名声より死後に栄誉を残す生き方なのだということを、身をもって示しているのでしょう。

 

南方熊楠(みなかたくまぐす) 

18671941)和歌山県生まれ。博物学者、生物学者、民俗学者として知られ、菌類の研究では世界的に高い評価を得る。記憶力が抜群に優れていたことや、多数の言語を操る高い語学力など天才的なエピソードだけでなく、人並みはずれた言動や行動が多かったため、奇行に関する逸話も数々残している。

 

 

 

◎運命を知りながらも可能性を求め続ける心理

 

山本五十六

 

故国が故郷と同じ運命にならぬように最善の努力をしようとした連合艦隊司令長官

 

 日本でも海外でも尊敬され、その生涯が、日本だけでなくアメリカでも何度も映画の中に描かれた人物に山本五十六がいます。

 連合艦隊の司令長官として、創造的かつ常に現実を見据えた作戦を挙行し、圧倒的な戦力差のある米海軍を苦しめた名将としての評価は今も揺るぎないものです。米太平洋艦隊のチェスター・ニミッツ司令長官も「日本海軍で山本より優れた司令官が登場する恐れはない」と判断し、彼の殺害計画を実行させたといわれています。

 その一方で、五十六は、日米開戦には徹底的に反対し、その前段階として日独伊三国軍事同盟にも最後まで反対したことで知られています。五十六はハーバード大学に留学し、在米武官を務めたこともあるため、アメリカの事情に精通していたとされています。そして日米の国力の差の大きさも熟知していたので、日米開戦はどうしても避けたかったのでしょう。

 しかし、それが不可避となると、「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる」と近衛文麿首相に明言し、その後は短期決着・早期和平を考えた作戦を実施しようとしたのです。結果的にはミッドウェー海戦で大敗を喫した上に、乗機を襲撃・撃墜されて非業の死を遂げ、彼の願いは叶いませんでした。

 私は、このような五十六の言動には、彼が長岡藩士の子弟であることが大きく影響したと考えています。

 実は山本という姓は、長岡藩が会津で戦った際の総司令官・山本帯刀の戦死後、後嗣がなくなった家を継いだものです。山本五十六自身は明治の生まれですが、長岡中学に通っていたころには、河井継之助と山本帯刀を心の支えにしていたそうです。

 大政奉還後、河井継之助によって藩政改革をおこなっていた長丘藩は、武装中立の立場を取ります。河井は会津藩との仲介を申し出ますが、新政府軍に拒否され、仕方なく奥羽越列藩同盟に参加。圧倒的な兵力を擁する新政府軍を、一時は敗走させるほどでした。

 しかし結局は戦力に勝る新政府軍によって長岡藩が陥落、河井自身が負傷、戦死するなど多くの犠牲を払うことになりました。

 よく考えると、五十六のおかれた立場は、河井継之助ときわめて似たものがあります。圧倒的な兵力に対して善戦し、有利な講和をするのが使命です。

 自分の運命を河井に重ね合わせて、まずは兵力差のあるアメリカとの開戦を避けようとしますが、それが不可避になると、米軍相手に12年は暴れてみせようという使命感が彼を突き動かしたのではないでしょうか。

 しかしながら河井と同じく五十六も自身の身と祖国を守ることができなかった。歴史の流れを変えることができないと知っていても、運命に殉じたのかもしれません。

 

山本五十六(やまもといそろく)

18841943)新潟県長岡市生まれ。大日本帝国連合艦隊司令長官。海軍大将(死後、元帥)。海軍次官時代は、大臣の米内光政らとともに日米開戦に反対した。しかし太平洋戦争時には、真珠湾攻撃を指揮。19434月、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島で、米軍機に撃墜され戦死。多くの名言を遺したことでも有名。